ハヤシ歯科レポート

10年後のアナタのための歯科医院 - ハヤシ歯科診療所のエピソードZERO

院長の林 祐巳子です。こちらに目を留めていただきありがとうございます。
ここでは、ハヤシ歯科診療所が、皆様にどのような治療を提供しているのか、皆様にどのような体験や生活を過ごしていただきたいと考えているのか、そして、そう確信するに至った経緯などを、私の歯科医師としての決意や志などと共にお話ししていきます。

気軽にお読みいただけますと嬉しく思います。診療を受ける皆様の不安なお気持ちが、少しでも軽くなりましたなら、これ以上の喜びはありません。

・私が大切にしている「口から食べる」という哲学
「いつまでも口からしっかりと食べれる」ことは、健康寿命を長くし、あなたの人生を心から楽しめるようになることに繋がります。
それが私の歯科医療としての第一の目標です。
それは、単に歯を治すことだけではなく、人生をより良くするためのサポートとも考えています。
それでは、なぜ、私がこのような思いを持つようになったのかを、私自身の人生経験を振り返りながらお話をしていきます。

・生まれも育ちも生粋の名古屋っ子
私は「歯科医院の院長で歯科医師の父」と、「受付を含め、治療以外の医院内のすべての業務をサポートする母」という両親のもとに育ちました。
母は毎日夜遅くまで、歯科医院で生じた事務の仕事を自宅でもしていました。幼い頃は仕事をする母の後ろに座って、色々と親子の会話をしたことを、今でも懐かしく思い出します。
思い起こせば自宅は診療所と兼用でしたので、毎日小学校から帰ると、まずはランドセルのまま父母と患者さんに挨拶をしてから自宅へあがるのが日課でした。たくさんの患者さんに、小学生の頃からかわいがっていただきました。同時に父の治療の素晴らしさも、母が切り盛りする歯科医院の良さも、皆さんから教えられて育ちました。

・臆病だった子ども時代
小学生になったばかりの頃の私には、男の子と一緒に駆け回って遊ぶような一面もありました。しかし実は運動音痴で、ドッジボールはボールに当たって痛いのが嫌で逃げまわり、水泳も苦手で大嫌いでした。
それでも両親は、私に泳げるようになって欲しかったのでしょう。毎年、夏休みになると、スイミングスクールに通わされました。
通い始めた頃の私は押し入れに隠れたりして、何とか水泳をサボろうとしていました。ところが、続けていると水泳がだんだん楽しくなり、数年後には喜んで通えるようになったのです。
水泳の後には、忙しい両親に代わって付き添ってくれた祖母と一緒に、タルタルソースたっぷりのフィッシュバーガーを食べるというご褒美も、一役買っていたのかもしれません。
この経験は、嫌なことでも続けることで、楽しくなることもあると知るきっかけとなりました。今も、祖母との想い出と共に、私はフィッシュバーガーが大好物です。
こうして楽しみながら、うまく泳げるようになりましたが、小学校の学年が上がっても、私はいつも父から逃げまわっていました。

・厳格な父との関係
なぜなら、父はまじめ一徹、仕事でも家庭でも完璧をめざす厳しい人柄だったからです。そんな父の期待に応えられずに、叱られるのがとにかく怖かったのです。叱られそうな時には、得意の押し入れ作戦か、母の所に逃げ込んでいました。
叱られている間は、自分の言いたいことなんて口には出せません。目には涙を浮かべ、爪が食い込むくらい拳を握りしめて、父をにらみつけるだけです。ただただ黙り続けて、叱られ終わるのを待っていました。
そしてそんな時にはいつも母が助けてくれたものです。父に叱られて精神的に追いつめられた私は、時に「わーーっ」と爆発して、混乱した感情を母に甘えてぶつけていました。今思えば、父と私の板ばさみです。母にはずいぶんと辛い思いをさせてしまったと後悔しています。

・自信を持てなかった学生時代
小学校高学年の頃の私は、いつも自分に自信が持てず卑屈に過ごしていました。周りの人の批判が怖くて、自分の心に思うことがあっても素直に言い出せず、最初の一歩をふみ出せない性格になっていたのです。
小学4年生から進学塾に通わされていたのですが、塾では劣等生の落ちこぼれ、学校では優等生という二重生活を強いられました。この二重生活のジレンマは、精神的にかなりきついものでした。学校では持ち上げられるのに塾では期待されず、やっぱり自分はダメだと思うこと以上に、扱いのギャップの大きさがとても辛かったのです。
そこにさらなる追い打ちをかけたのが、12歳での中学受験不合格でした。
心の中では「どうせ無理。志望校を受けてもどうせ落ちる」と、自分が傷つかないように予防線を張っていました。しかし、やはり受験失敗はめちゃくちゃショックでした。
しばらくは、恥ずかしくて友達と遊ぶ気持ちにもなれず、自室に引きこもってしまった私のために、母が食事を運んでくれた事は忘れられません。

・トラウマを克服して歯科の道へ
志望校に通うことは残念ながら叶わなかったので、地元の中学校に進学しました。しかし、受験失敗を精神的に吹っ切ることがなかなかできません。『何をやってもどうせダメ...』、『うまくいかないに決まっている…』という思いに囚われていたのでした。
臆病な自分を引きずった気持ちで過ごしているので、当然ながら成績も伸び悩みました。そしてさらに、父に「そんなふうだからダメなんだ」と言われるのも、その言葉に落ち込むのも怖くて、いつも父の顔色を遠くから伺って、顔を合わさないように、避けるようにして生活していました。

・恩師との出会いが人生を変えた
そんな中学3年生も夏を迎える頃のある日、私に新たな転機が訪れました。通い始めた塾で、恩師となる先生に出会ったのです。その先生はいつも私を信じ、温かく励ましてくださいました。
ある日「あなたならばできると信じているから、頑張って」と先生に声をかけていただきました。部活もせず、塾と学校と家の往復をなんとなく毎日繰り返すだけの、パッとしない私を先生は心から信じてくださっていたのです。
先生にとっては当たり前の声掛けだったのかもしれません。しかし、私にとっては生まれて初めて、しかも面と向かって目を見つめながら「信じている」と言われた瞬間でした。鳥肌が立ち、膝がガクガク震えました。
その言葉に突き動かされた私は、その場で先生に自分の決意を伝えて約束をしました。
「次の通知表で必ず成績の偏差値を10上げます」と。出来そうにない事は失敗が怖くて口に出せない自分が、とてつもない目標を口走ったものです。
失敗したらかっこ悪いとか、どうせダメだと思う余裕もないほど夢中で頑張りました。その結果、なんと先生との約束通りの成績を上げることができたのです。

・初めての成功体験
中学3年生で成績を上げて志望高校に合格できたことは、私にとって初めての「無我夢中でやり遂げる」という成功体験となりました。懸命にやり切って、高校受験を乗り越えた経験は少しずつ私の自信となり、やがて父の顔色うかがいではなく、自分事として将来の進路や人生について考えられるようになっていきました。
そしてある時ハッと気づいたのです。私は父の言葉の裏側に隠れた、本当の意味を理解できていなかっただけなのではないか?父は失敗したから叱ったのではなく、むしろ私が一生懸命に頑張らないから叱っていたのではないか?ということに、です。
父もあの恩師と同じく、私を信じて叱咤激励していてくれていたと分かってからは、心が解放されて軽くなったように感じられました。
失敗を怖がって、はじめの一歩を躊躇する必要なんてない。劣等生でも、かっこ悪くても、出来なくても、失敗しても良い!気にせずとにかくやってみよう!と思えるようになったのです。

・父の背中を見て
そんな心境で父の仕事を見られるようになると、歯科医師になって父の跡を継ぐという義務感だけでなく、「歯科医師になるのも何だか面白そうだな」と、感じている自分の素直な感情があることに気づきました。
それからは、ひたすら仕事にうち込む父の姿に触れるたびに、「歯科の仕事はなんだか凄そうだな」「面白そうだぞ」「自分にもできるかな」「やってみたいかも…」と、少しずつ惹かれていったのでした。
父は治療の仕事が終わってからも、夜遅くまで勉強会に参加したり、家で論文や症例発表用の資料をまとめたりしていました。私も母もその資料作りをよく手伝ったものです。時には夜遅くにスライドフィルムの現像屋さんへ、母の車で走ったのも良い思い出の1つです。
こうして、失敗を怖がることもなくなり、私はのびのびとした高校生活を送りました。その中で歯科医師という職業に真摯に向き合う父の姿と、治療がうまく行った後の患者さんの満足そうな笑顔を幾度となく目にして、自分自身のこれからをたくさん考えました。
あの父があそこまで打ち込む凄い世界、もちろん不安もありましたが、患者さんの笑顔を私のこの手で作ることができる奥深い歯科医療の世界に、私は飛び込む決意をしました。父のように患者さんに、その治療の素晴らしさを語ってもらえる境地を、目指してみたいと思ったのです。

・充実した大学生活
その後、大学入試も突破して、高校を卒業。歯科大学に入学してからは、テニス部に入部して仲間と楽しく過ごしたり、勉強にも力を入れて頑張ったりと、とても充実した学生生活を満喫しました。
大学テニス部でも運動音痴は発揮され、長らく本当にさえない選手でした。しかし素晴らしい仲間のお陰で6年間、テニス部での活動を続けることができました。しかも下手なりに、年々テニスも楽しくなっていったのです。
テニス部での練習はもちろん、自宅での勉強の合間にも素振りで気分転換をしたりしていました。すると神様からのご褒美なのか、何と5年生の晴れ渡る秋のある日、試合で渾身のスマッシュが決まったのです。あの感動は生涯の宝物となりました。

・母の病と歯科医療に向き合う覚悟
しかし楽しい学生生活を送る中で、突然思いもよらないピンチが訪れました。大学5年生の頃、母が大掃除で大怪我を負い、それがきっかけで持病が発覚したのです。
主治医から「このままでは命が危ない」と告げられた時には、全身の震えが止まらず立っていられないほど力が抜けていきました。そして溢れだす涙がとめどなく頬を伝いました。
幸いその後は回復して、元気に私の相談を聞いてくれたり一緒に買い物へ行ったりと、普通の日常に戻ることができました。

・患者家族の気持ちを知る
あのとき学生だった私にはなす術もなくて、父や主治医が私の頼みの綱です。自分はただオロオロと母に寄り添い、「あぁ神様どうか母を助けてください」と祈ることしかできませんでした。この時初めて肉親の命の危機を通して、患者さんやそのご家族の気持ちを経験しました。
回復した母は通院やリハビリを続け、私もできる限り一緒に付き添いました。患者さんとそのご家族にとって、医師や看護師、リハビリの理学療法士などの方々が頼りです。彼らが病気を治すべく、さまざまな処置を行うのは当たり前ですが、希望や安心を患者さんに与え、時には患者さんの生きる支えにもなり得るのだと、この時の経験から学ばせていただきました。
同時に自分一人の力は限られていて、多くの方の力を借りなければ無理なこともたくさんあるのだと実感しました。しかし、中学時代に恩師の先生と出会って以来、やれば出来ると信じて頑張っていた私には、一人ではできることに限界があるのだという真理を、この時にはまだ学びきれていませんでした。
母の闘病生活は続きましたが、なんとか元気に過ごしてくれて、その頃には旅行にも一緒にたくさん出かけたものです。

・歯科医師として技術を極める日々
歯科大学卒業後10年ほど後経った頃には、父の歯科医院(現ハヤシ歯科診療所)を継承して、歯科医師そして院長として充実した日々を送っていました。そして父を含めて、超一流と言われる様々なドクターに教えを乞い、技術を磨き続けていました。
日本から見て地球の裏側にあるブラジルに、世界一の講師がいると聞いて、一週間の実習セミナーを受けに出かけたりもしました。海外のセミナーや学会にはいつも一人参加なので、心細い思いをすることも多々ありました。
日本全国津々浦々、世界中どこへでも出向いたので、体力的にはクタクタに疲れます。しかしそれ以上に、学びたいという欲求が勝り、私を学びの地へと駆り立てたのでした。
患者さんに正直に向き合い、正しい治療を提供したい。教えを乞うたドクターや父の想いを継いで、ただただ最善を尽くす、技術を極めることに没頭して、歯科医師としての充実感を感じていました。
一方で心の奥では技術は奥深く、「自分はまだまだダメだ」という葛藤がありました。まずは私自身の技術を磨くことが、一番大切と思って突っ走っていました。当時は自分の治療技術が最優先だったのです。

・母の病状悪化と「口から食べる」ことの重要性を再認識
そんなある日、再び母の病気が悪化しました。とある処置の担当が経験の浅いドクターだったのです。母の病状は悪化の一途をたどりました。痛みに涙を流し、ベッドの上で痛みをこらえてジタバタと足を動かす母の横で、私はじっと涙をこらえました。
身近な家族との別れに恐怖し、無力感に打ちひしがれ、心の底から思いました。
「母をこの苦しみから救ってくれる本当の医者はどこにいる?!」
そして少しずつ病状が悪化するなか、母は闘病鬱になり、口から物を食べられなくなってしまいました。口から食べられなくなった途端に、みるみる体力が落ちていく姿を目の当たりにしました。口から物を食べられなくなった母の姿は、私に大きな衝撃を与えました。

・諦めずに探した専門医
しかし、私は諦めませんでした。諦めきれませんでした。
このピンチを救える専門医を探しまくり、幸いなことに十分な技術と経験を持った素晴らしいお人柄のドクターに何とか出会うことができました。おかげで、母の病状は持ち直し、痛みもすっかりなくなってくれました。
目の前の症状だけでなく、総合的に身体を診てもらえる病院とドクターを探すことがいかに難しいのか、改めて思い知らされました。病院の温かいスタッフの方々や信頼できる医師に出会えた時には、心から安心しました。明るい展望と安堵感にどれほど救われたか、言葉では言い尽くせません。

・歯科医師としての使命に目覚める
この時私は、医療の限界へのもどかしい気持ちと同時に、『患者さんは最後には主治医を信頼して任せるしかないのだ』と痛感しました。そして、深い絶望の淵と、そこからの復帰を経験して、私は悟ったのです。
『ああ!ここに、私の使命があるのだ。これが私の、お役目なのだ」と。
この時私は、歯科医師として、患者に救いの手を差し伸べる『最後の砦』でありたいと強く想いました。
また、この母のピンチは「自分の口から物を摂ることが、生命維持や健康を守る根源である」ことを、それまで以上に深く、強烈に再認識させてくれました。そして、「健康が一番大切で、日々の暮らしを家族と笑って過ごせることが幸せ」なのだと、本当の意味で気づかせてくれたのです。

・私がチーム医療で提供を約束する価値観
この一連の悟り・気づき・再認識から、私は目の前の悪い歯だけを治す単発的な治療ではなく、「一生涯にわたる口の中とその周辺の健康維持管理する」=「生涯管理」を前提とした「口の中とその周辺全てをトータルで治療する」=「全体治療」の方針を守り抜こうと決意しました。これは父の教えの核心部分でもあります。
そして、どこに行っても治らないと苦しんでいる患者さんにとって、私が「最後の砦」となり、最善を尽くしてお口の健康を守るお手伝いをしたいとの想いを強くしました。
いま思えば、本当の意味で、自分の生き方、歯科診療への向き合い方が揺るぎないものになったのは恥ずかしながらこの頃だったのでしょう。

・二つの大切な学び
母のピンチから私は二つの大切なことを学びました。
一つ目は、口からものを摂ることの大切さです。食べることは一番大切ですので、私は「食べるための治療と管理」を、より一層大切に考えるようになりました。
「食べるための治療」として、まず最初に『全体治療』をします。そしてその後は「食べるための管理」として、改善した口の中とその周辺の健康を長く守るための『生涯管理』が欠かせません。管理をすることで、年をとってもずっと口から食べられるようになるのです。

そして二つ目は、チームワークです。私一人の技術が優れているだけではダメ。やはり個人だけの力で全てを処理することは出来ないのです。母の治療とリハビリを通して、とても多くの先生や看護師の皆さんにお世話になりました。生きる希望をも与えて頂きました。
私も多くの優れた専門医の歯科医師や、スタッフと共に協力・連携して、チーム医療で「食べるための治療と管理」を提供していきたいのです。昨日より今日、今日より明日とレベルアップしながら、あなたが『最後まで口からしっかりと食べる』を達成する手伝いをすることが、私の歯科医師冥利に尽きるからです。

・あなたの人生をより良くするために
私の歯科診療は、単に歯を治すことではありません。あなたの人生をより良くするためのサポートなのです。
『口からしっかりと食べる』ことで健康寿命を長くして、あなたがあなたの人生を心から楽しめるようにすること。それが私の目標です。
母との経験から学んだ「口から物を食べること」が、健康維持の根源であるという哲学。この哲学に基づき、私はあなたのためだけの最適なオーダーメイド治療と管理を提供しています。

ハヤシ歯科診療所は、あなたの10年後、20年後の笑顔のために、今日できる最善を尽くす医療で、あなたに寄り添ってまいります。


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